大沼洋一法律事務所

法曹世界の珍道中 第7章 弁護士の世界

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法曹世界の珍道中 第7章 弁護士の世界

法曹世界の珍道中 第7章 弁護士の世界

2024/11/29

  1  東京時代
   私は,法科大学院、大学の教授をしながら,南青山の法律会計事務所に籍をおき,弁護士として活動していた。同大学では,土日の他に週一日,研究日として授業や会議がない日がある。その日を弁護士活動に当てていた。いわば「週一弁護士」である。
   私が入所した当時,弁護士は,合格して数年の若手であった。私が入ったのは,若手だけの事務所ではクライアントからの信頼が得られにくい場合があろう。そんな時に私が役に立てるのではないかと思ったのである。
   この事務所で粉飾決算をめぐる大きな事件をやるかどうかが問題となった。半導体製造装置に関する原告数129名の大事件である。当時,事務所内では,若手弁護士の小さな事務所でこのような大きな事件を担当するのは無理があるという強い意見があったが,代表弁護士は,「いや大沼先生がいるから大丈夫でしょう」,と言う。私は,これまで,訟務検事時代も裁判官時代も,難しい事件から逃げたことはなかった。経験していない事件でも,担当となったら全力でやらざるを得ず,それでやれなかったということはなかった。そこで,私も,「大丈夫。やれますよ」と答えた。
   代表弁護士は,同様のプロデュース社に関する粉飾決算,原告数227名の事件も見つけてきた。私は,ほぼ同時期にこの二つの事件を主任弁護士として担当することになったのである。
   だが,間もなく,これまでとは状況が違うことに気付いた。訟務検事は担当行政庁に指示して資料,証拠等を集めてくれば良い。裁判所の時も,当事者に求釈明したり,証拠の不足や不備を指摘して,主張・立証させれば良い。ところが,新しく粉飾決算事件を提訴する弁護士には,上記のような行政庁,当事者がいない。すべて自分の手で資料,証拠を収集する必要がある。だが,自分の手元には何もないのだ。
   考え得る資料,証拠は刑事記録のみである。しかし,刑事記録は確定後でなければ閲覧・謄写できないのが原則である。当時,粉飾に関与した取締役らの刑事事件が係属中であり,その確定までには数年かかるかもしれない。提訴を予定している民事裁判はそれまで待てない。提訴はしたものの証拠を出せないのでは,大変なことになる。
   その時閃いたのが犯罪被害者保護法であった。犯罪被害者であれば確定前でも閲覧・謄写が可能である。そこで,刑事裁判が係属していたさいたま地裁に株主は犯罪被害者だとして記録の閲覧・謄写を申請した。ところが,申請はあっさりと却下された。株主は犯罪被害者ではないというのである。しかも,これに対する不服申立の方法はないというのだ。
   株主が金融商品取引法にいう粉飾決算の被害者に当たるかどうかは難しい問題である。条文上当たるという解釈も可能であろう。しかし,犯罪被害者保護法の立法過程をみると,粉飾決算の被害者のような人は想定されていなかったようにも考えられる。しかし,私としては,何が何でも謄写を認めてもらえないと困る。
      その後,秋になり,類似の粉飾決算事件の民事記録を横浜地裁で閲覧していた際,さいたま地裁の同じ部がある弁護士に対し,株主が犯罪被害者であることを前提として刑事記録の謄写を認めたことを発見した。その弁護士の事件で謄写を認めながら,私の事件の閲覧申請を却下するのはあまりに不平等である。 それを主な理由として再度謄写申請をしたら,裁判部が面会してくれることになった。そこで,不平等さを力説したところ,あっさりと謄写を認めてくれた。
      某社,プロデュースとも,刑事事件の記録をセレクトして証拠として出すと,記録が20~40冊になった。これをもとに準備書面を書くのであるが,「週一弁護士」としては時間に限りがあるうえ,個人の事務机の上に記録をおける分量ではない。そこで,夜,打合せ室を使わなくなってから同室の大きめのテーブルにあちこちの記録を広げ,仕事をする。完成した時に時計を見ると朝の七時過ぎである。できあがった準備書面案のファイルを他の弁護士にメールで送り,大学に行く。大型事件を二つこなしていくには,こういう徹夜作業が2か月に1,2度の割合で必要であった。
      だが,正直,徹夜明けの講義では弊害が出ることがしばしばあった。何を講義するかは頭の中に入っている。レジュメをプロジェクターに映し出しながら,講義を進めていく。しかし,睡魔には勝てず,知らず知らずにうちに何回も同じことを繰り返していた。できの悪い学生でも,そういうことは見逃さないものだ。
      某社の事件は,順調に期日が進み,和解期日になった。私は,勝訴を確信していたが,裁判所は原告が勝つとは限らないと圧力をかけてくる。しかし,原告は強気,被告は弱気であり,和解室にその雰囲気が広がる。結局,約2億1000万円を請求した事件で2億円ジャストで和解が成立した。この種の事件としては異例の高額の和解であり,大成功である。
      プロデュースは,予想よりも長くかかり,ようやくある年の3月に結審した。勝訴を期待する。しかし,一向に判決がないまま同年一二月になり,裁判長が交替した。
    翌年一月,一旦弁論が再開される。新裁判長は原告・被告双方に「他の主張・立証なし」ことを確認すると再度弁論を終結し,和解を勧告した。新しい裁判体の心証を知る必要もあったので,和解の席につくことにする。同年二月,裁判長は,「当裁判所は取得自体損害説は採らない。公表後下落額損害説をとる。しかし,粉飾公表日前日の株価の主張・立証がないため,このままだと原告の請求は棄却となります。」と宣う。青天の霹靂であった。
   取得自体損害説は西武鉄道事件に関する最高裁判決のとる判例であり,これまでその説を前提として主張立証をしてきた。公表後下落額損害説を採るというのは判例違反の疑いがあるし,何より初耳である。新しい裁判長が弁論再開をした際,それのことを秘し,何ら求釈明をせず結審し,和解の席で,公表後下落損害説を採ることを明らかにするというのは釈明義務違反であり,不意打ちではないか。
   まあしかし,新しい裁判体がそのような見解をとる以上,予備的にせよそれを前提とする主張・立証をする必要がある。泣く子と裁判所には勝てない。そこで,私は,公表後下落説にそった主張・立証をしたいので,弁論を再開して欲しいと要求した。ところが新裁判長は,冷徹な声で弁論再開は認めないと言う。
   この時私は,弁論が再開される前に起きたあるエピソードを思い出した。私が大学で講義の準備をしていた時,事務所の事務員小百合さんから電話があった。書記官が「今日は裁判所との打合せがある予定ですが,大沼弁護士はどうされましたか。」という電話である。私は打合せがあるとは全く聞いていなかったので,書記官に確認して欲しいと伝えた。その後,小百合さんが書記官に確認したところ,裁判官は,原告は呼んでおらず,被告とのみ打合せをするとのことであった。
   考えてみると,弁論再開の直前,被告代理人とのみ秘密裏に打ち合わせをし,その内容を原告には伝えず記録にも残さないというのは,民訴法149条4項民訴規則63条2項の規定違反である。
   このことや最高裁判例との関係で裁判所を痛烈に批判する上申書を提出し,次の期日に行くと,裁判長は大きめのマスクをし,一メートル以上テーブルから離れて座っている。上申書が効いているようだ。
   しかし,弁論再開は相変わらず認めず,低い声で和解案として請求額の四割を提示した。この和解をのまなければ請求は棄却となるそうだ。
   原告側代理人の立場としては原告全員に書面を出し,この和解案を受諾するか否かの意向を打診した。裁判所の権威は強い。約半数124名が受諾の意向を示す。しかし,私としては納得できない。私は,受諾すると回答した原告一人一人に電話し,丹念な説得をした。結局,和解案を受諾する者は15名となった。
   地裁の判決は予想どおり全敗であった。しかも,その理由は「原告らは,公表前日の株価について主張立証をしない」というものである。これは明らかな嘘である。私は,主張立証のため弁論再開を要請したのだが,裁判所がそれを認めなかったのだ。
      憤慨したが,高裁の裁判長は私の同期であった。同期の中でも飛びきり優秀な彼は,地裁の判決をひっくり返し,原告側を全面勝訴させてくれた。総額五億一千七百万円余が認容され,年五%,六年半の遅延損害金が加算された。八億を超える勝訴判決であり,事務所には弁護士報酬として約二億円が入った。
      私もかなり潤ったので,ミシュラン星付きのレストランで私主催の食事会をあれこれ開き,事務所の人達や友人,知人と喜びを分かち合った。
      私の訟務時代の元部下が不祥事を起こし、訟務検事を辞めさせられていた。能力的には優秀な人物だったが、仕事のあまりのストレスと家庭内のトラブルのため適応障害となったための不祥事であった。弁護士会は、不祥事をおこしって裁判官や検事を辞めた者をなかなか入会させたがらない。弁護士会としてのメンツがあるらしい。
      私は、不祥事の原因とその治療、問題解決などの状況をまとめさせると共に、南青山の事務所の代表弁護士に頼み込み、東京の弁護士会への入会のために力を尽くしてもらった。それが功を奏し、不祥事から5年目で何とか入会がかなった。これで心置きなく東京を去ることができると感じた。
  2  仙台
   振り返ると単身生活も13年となり(東京家裁時代を含めると16年),その間妻に寂しい思いをさせてきた。そろそろ妻の居る仙台に戻り、少しでも妻を安心させるべき時期が来ているように感じた。私は,令和3年5月、南青山の事務所を離れ,仙台に帰って仙台地裁から歩いて5分のところに事務所を開くことにした。新しい出会い,経験があるかもしれない。
   貝ヶ森の自宅もリフォームし、住み心地が格段に良くなった。それに伴い、夫婦仲も良好になった。
   今東京でしている仕事を継続しているものもある。法務省政策評価懇談会の委員も令和6年3月までは続けるつもりである。通算10年である。
   現在主任をしているベネッセの個人情報漏えいをめぐる原告数1万2000人ほどの事件などは重要な事件引き続き担当中である。この事件は金額は少ないながら、何とか勝訴で終わった。
   また,国や9社の企業を相手にする建設アスベスト訴訟も新たに東京地裁に提起した。こちらは私が単独で弁護する事件である。被告1人に弁護士が数名つくとして,原告の弁護士は私1人である。この事件も1年半後、和解が成立した。
   自己破産、離婚、相続、刑事事件、企業間トラブルなど次第に仙台での受任事件も増加していった。
   そんな矢先、令和4年12月、私は突然倒れた。一番町という仙台の繁華街で座り込み、立ち上げることができなくなったのである。救急車で厚生病院の集中治療室に運ばれたが、心臓は20~30と徐脈であり、心不全であった。その最大の原因は腎臓にあった。腎臓が和悪いことは承知していたのであるが、週3日、人工透析に通うと仕事ができなくなるのが嫌で、専門病院での治療を拒否していたのである。そのつけが回ったのだ。
   幸い腎臓の専門病院であるJCHO仙台病院で腹膜透析を薦めてもらった。これは毎日、夜間の8時間、自宅で腹膜透析をするという方法である。透析患者の3%未満が行っているらしい。夜間は毎日潰れるが、日中、仕事ができるのは素晴らしい。
   もうしばらくは生きなさい、という神の啓示を感じた。
   私はこれまで様々な人たちのお世話になり、助けてもらった。曲がりなりにも、法曹世界のほぼ全てを経験させてもらい、自分なりに充実感と生きがいをもった人生を送らせてもらった。これからは、困っている人、不幸になりそうな人々を笑顔にするため、社会に貢献し、恩返しをするために生きていきたい。
   まだ仕事ができるということは幸せなことである。それは多くの人々・社会のおかげであり、感謝すべきである。
   新しく出会った人たちの助けを借りながら、私の法曹世界の珍道中は,もうしばらく続きそうである。
 

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