法曹世界の珍道中 第3章 裁判官の世界
2024/11/29
1 判決を書いたことのない判事
大阪地裁では交通部に配属された。驚いたのは,部屋にいた裁判官の学歴である。私以外に6名の裁判官がいるが,東大卒2名,京大卒3名,後1名は分からなかったが,私大卒の私は,極めて少数派である。裁判所って東大・京大卒のきらびやかなエリート集団なのだとつくづく感じた。私の隣席は京大卒の裁判官だったが、かなりの美人であり、弁護士のファンも多かった。
赴任して間もなく,困ったことが起きた。裁判官にとって期日で何が必要かというと法服である。法服なしでは,法廷に行っても裁判官として扱ってもらえない。ところが,その法服の支給がなかなかない。書記官を通じて,会計課に問い合わせてもらった。返ってきた答えは,「訟務に行く前の法服はどうされたのですか」であった。要するに,私は,訟務に行く前は裁判官をしており,その時法服の支給があったはずだから改めて支給する必要はないと認識されていたらしい。生粋の検事が判事として入ってくるなどという発想はなかったのだ。
結局,期日には新しい法服が間に合わなかったので,部長からお古で袖のすり切れた法服を借り,それを着て出廷した。
通常,裁判官は,10年間,判事補として働く。特に最初の五年間で地裁の部長や先輩判事に徹底的な指導を受け,一人前になっていく。いわば職人の世界である。研修も色々ある。私は,そういう経験が一切なく,修習生以来判決を書いた経験が一度もないまま判事になった。そんな私の判決をそのまま世に出してよいのか不安がよぎる。
裁判官の仕事は多忙である。百数十件以上の未済事件をかかえ,それを裁きしながら,毎月配点される数十件の新件について審理していかなければならない。
原告・被告とも主張・立証が終わると,否応なしに判決を書かざるを得ないことになる。しかし,判決を書くための時間が用意されているわけではない。夜間や休日に書くしかない。初めて書く立場としては簡単ではない。万が一判決でミスをすれば,徹底的に叩かれることは当然である。そんなこんなで最初の一年目は処理が遅れ,未済がかなり増えていった。
しかし,2年目になると,ようやく判決を書くコツが分かってきた。
交通部の判決には形がある。パターンを分析し,ひな型を作り,それを埋めていくことによりかなり効率が良くなる。また,判決のミスもパターンがあるので,チェックリストを作り,チェック漏れがないようにする。そして,判決は,新件を配点されると同時に書き始める。審理が終わるころには,判決を書き終えているのが理想であり,完全には終わっていなくても大体完成していれば慌てることはなくなる。
書きかけの判決を手にしながらと望外の成果を得ることもあった。当事者にとって,判決の原案はプレッシャーになるらしい。和解の成立率がアップしてきた。1年目は苦しかった事件処理が,楽になり,楽しくなった。後手に回れば地獄。前倒しで処理ができれば天国である。
裁判官同士で話合って,月一回,その前一か月間の交通部の判決を整理し,書いた裁判官以外の者が解説し,議論するという研究会を始めた。裁判官が他人の判決をあれこれ議論する機会はなかなかない。先輩も後輩も平等な立場で議論するのは,大変勉強になる。
3年目で未済件数は減った。前任者から引き継いだ事件数よりもかなり少なくなった。しかし,自分の判決がどのように評価されているかには自信がなかった。これまで判決を書いたことがなかったのだからうまくかけているわけはない。コンプレックスが重くのしかかっていた。
ところが,こわもてで知られる高裁の部長が私の判決を毎回褒めていると聞いた。この人は,陪席が書いた判決が気に食わないとどこが悪いのかを言わずに何回も突き返すことで有名だった。私の判決を褒めるなんて信じられない。お世辞のたぐいだろうと思っていたら,高裁のその部の裁判官から直接言われたし,飲み会の席でもその部長から直接褒められた。嬉しさに舞い上がってしまった。
転勤が近くなった時、私は、足下がドーンと揺れるのを感じた。地震である。大抵の地震は本震の前に予審があるものである。ところが、今回のはいきなりの本震であった。机に向かっていた私は、とっさにガスストーブを消して部屋から出た。直後に部屋の両側にあった本棚が倒れ、部屋に入れなくなった。隣の部屋で子供たちと寝ていた妻に「今凄い地震があったね。大丈夫!」と聞くと、妻は「シーッ!静かにして!」と言う。妻に言わせると、空の段ボールが落ちて息子のお腹に当たっただけで、後は何ともないと言う。宮城県沖地震を経験しているからこの程度は何ともないそうだ。部屋を飛び出していて本当に良かったと思った。寝ていて本棚の下敷きになり、助けを呼んでいたら、「シーッ!静かにして!」と言われ、助けが来なかったかもしれない。
交通手段が途絶え、裁判所にも行くことが出来なくなり、テレビのニュースばかり見ていたら、違和感を覚える出来事があった。外国から救助のため医師と救助犬が駆けつけたが、入国を拒否されたとのことである。理由が日本の医師免許を持っていないとか狂犬病の予防接種を受けていないことだそうだ。海外からボランティアで1人でも多く人命を救いたいと駆けつけた人に対する態度だろうか。結局入国までに1日以上かかったらしい。
また、大阪から被災地である神戸に行くには2本の幹線道路がある。しかし、2本とも被災地に向かう車の列で身動きがとれない。これらの車がそのまま被災地に入ったらどうなるのだろう。それでなくても、ビルが倒れ、道路に亀裂が入っている。その中にこんなに多数の車が入ったら、救急車も消防車も動けなくなるのではないか。なぜ、被災地への車の流入を阻止しなかったのかは後でその理由がわかった。進入禁止の標識が足りなかったので東北の業者に発注し、納入までに3日かかったためとのことである。被災した命をどれだけすくいえるかは最初の48時間で決まるという。標識の発注のためにどれだけの命が失われたのであろうか。
さらに、住宅の密集地帯から火災が発生した。地震後コンセントを差したままにしておくと漏電により火災が生ずるらしい。米軍か自衛隊のヘリコプターが来て消化剤をまくしかないのではないかと思った。しかし、一向にヘリは来ない。後で知ったのだが、消化剤をまくと家屋の下敷きになった人々が酸欠で死亡する危険があったから撒けなかったそうだ。しかし、撒けなかったがゆえに広大な区画の全てが全焼し、下敷きになっていた人々は焼け死んだ。
何かがおかしい、と感じた。日本の公務員は世界一優秀だと信じていた。しかし、その優秀さはマニュアルを読んでその通りにするという優秀さだったようである。マニュアルがないために自分の頭で考えなくてはならない場面になると何もできなくなる。それは優秀さとは真逆のものではなかろうか。
少し落ち着いてから、私は、長男と長女を引き連れて被災地に向かった。ホッカイロとマスクが足りないと聞いていたので、3人ともリュックいっぱいにホッカイロとマスクを詰め込んで被災地へ歩いた。ひっくり返って屋根が真下になっている建物をみて、巨大地震のすさまじさに心が震えた。
2 賢治の里
盛岡家裁に赴任することになった。郷里の仙台を通り越して,隣の県への赴任である。家裁のみならず,二戸支部の掛け持ちである。仕事はのんびりしていた。ゆとりがあったので,局報「いわて」を担当することになった。岩手県は,宮澤賢治の里である。面白い人材が多い。裁判所の公用車の運転手さんは,普段はBMWを乗り回しているお金持ちだし,掃除担当の庁務員は書道の達人である。家裁調査官は,バラグライダーが趣味,裁判官の中には射撃が趣味な人がいた。そのほかにも,様々な趣味をもつ個性的な人達が多い。
そこで,その人達にエッセイを書いてもらい,その一つ一つに私が解説と感想を書くというスタイルをとることにした。
もっとも,中には,「自分がかけるのは頭くらいで,エッセイなどは書けません」という人もいる。そんな場合には,インタビューをして面白い話を聞き出し,私が代筆することにした。
これがなかなか面白いという評判をとった。視察に来られた仙台高裁長官は,全国の局報で後世に残す価値があるとしたら,局報「いわて」だけだろうと仰ってくれた。
三年目に地裁に移り,民事裁判を担当した。一般民事は初めてだったので,新鮮で面白かった。もっと長くいて色々な事件を経験したいと思っていたら,M所長から電話が入った。私が異動先の希望を東京,横浜,仙台の順に記載していたことについてであった。所長は,「大沼君のお父さんは身障者で仙台にいるんだよね。本当は仙台に異動したいんじゃないの」と言う。身障者の親の介護が大切だと思わない子供はいない。私は,所長の言葉に,「はい,それでは仙台が第一志望ということでお願いします」,と答えていた。大きな進路変更であった。
後で知ったのだが、この仙台行きの話は、所長の奥様と私の家内との話で決まっていたらしい。家内が仙台に戻りたいんですがと言うと、所長の奥様は「あーら大沼さん。簡単よ。大沼さんのだんなさんのお父さんが障害者なんでしょ。その介護のために必要だと言えば、裁判所は配慮してくれるわよ。それに私の主人が引っ張ってくれるから大丈夫」と言っていたそうである。既に、私が了承する前に私の人事は決まっていたのだ。これを知ったのは、20年近く経ってからのことであった。
判事以上の裁判官の人事は,判事補とは様相が異なる。判事補の異動は全国異動であり最高裁が決める。
しかし,判事以上になると,プロ野球の選手のような異動となる。全国に八つの高裁があるが,野球に例えると八球団があることになる。八球団は,それぞれレギュラーやそれに準じる控え選手を決める。そして,異動は,各球団の社長,監督相互のやりとりで決まる。
ほとんどの人が志望する東京高裁管轄は別として,その他は,各高裁が将来を見越した裁判官名簿を作成する。その名簿に載らない人はいわば所属が決まっていない人となり,どこに異動になるかが分からない。
私がここで仙台を希望したということは,仙台高裁の裁判官名簿に載せて欲しいという希望を出したことにもなる。一度は東京で仕事をしたいと思っていた身としては,その夢を諦めたことにもなるのだ。
3 何も知らない人に来てもらっては困る!
とはいえ,仙台は私の故郷である。住むのは修習生以来であり,暮らしやすい。裁判所は,仙台地裁だと思っていた。民事の通常部で経験を積むものと思い,伸び伸びと仕事ができると胸を膨らませた。ところが,配置されたのは仙台高裁であった。
同じ裁判所でも地裁と高裁とでは雰囲気が違う。地裁は,部長にもよるが概ねフランクで思ったことが言いやすい世界である。半人前の裁判官でも経験を積み,頑張って成長できるいわば「修行の場」である。しかし,高裁はそうではない。裁判官は全員一人前として扱われる。裁判官としての能力がどの程度あり,将来どのようなポストを任せられる器かを見定めるいわば「評価の場」である。そこで高く評価されれば将来は安泰であるが,仮に低い評価を受ければその後はドサ回りが待っている。高裁の陪席裁判官に自殺者が多いのはそのせいである。
着任早々,新任裁判官の歓迎会があった。私は,これまでのキャリアを述べた後,「このような経験しかありませんので,高裁が初めてなだけでなく,合議の主任は初めて,そしてほとんどの事件が初めてです。しかし,頑張りますのでよろしくお願いします。」と挨拶した。
私が挨拶を終えて自席に戻ろうとすると,右手を頭の上まで上げておいでおいでをしている人がいた。新しく来られたK仙台高裁長官である。私を目の前の席に座らせると,厳しい顔で口火を切る。「君ねえ。高裁の部長はもう六〇を超えていてよれよれなんだよ。地裁の部長のように何も知らない若手を一から育てる体力は残ってないんだ。君のように何も知らない人に高裁に来てもらっては困るんだよ!」。私は,何も仕事をしていないのにお叱りを受けることになった。
私の部の部長は,目つきが鋭いK部長であった。裁判所の中では反体制派とみられている高裁の経験が異様に長い人である。怖そうである。
ただ,右陪席は,I裁判官である。I裁判官は,私が司法修習生の時に地裁の右陪席だった人で面識があり,気さくな感じがした。
高裁となると判決の書き方が主文からして違ってくる。引用判決が主流であり,どこまでをどう引用するかが難しい。手続も地裁とは異なることが多く,面食らうことが多い。私は,とりあえず,面識があったI裁判官に質問し,教えてもらいながら仕事をしようと思った。ところがI裁判官に話しかけても,眉をしかめ「ウーン」としか答えない。いかに鈍い私でも,一日中そうだと,話しかけられるのを極度に嫌がっていることが分かった。しまいには,私の机との境界に段ボールで高い柵を設けた。本人いわく,「集中して仕事がしたい」からだそうだ。
さすがに,K部長に初歩的な質問をするのは恐怖を覚える。最初のころ,先例が少ない事件について地方の地裁の判決があるのを見つけ,「こういった判決がありました」とK部長に報告したら,えらく叱られた。「君は,高裁の部総括の私に地裁の裁判官が書いた判決を読んで勉強しろとでも言うのか。ここは高裁なんだよ。持ってくるなら,高裁レベルの判決を持ってこい。」と言うのである。地裁の判決なぞレベルが低いので,部総括にお見せすること自体間違いだと言う。くだらない基礎的なことを質問したら,どれほど叱られるかわからない。
高裁の仕事のやり方をどう学べば分からずとまどっているうちに,I裁判官は恐ろしい速度で起案を書いた,そして,その起案を一番上にした分厚い記録を,私が下を向いて仕事をしている机の上に,ドスーンと大きな音をさせて置く。叩きつける感じである。私は,驚いて飛び上がった。読めば完璧な起案である。仙台高裁に来る前,東京高裁の陪席をしていただけある。非力な私の焦りは頂点に達した。
私は,ある程度のところまでできあがると,起案をK部長に上げるようになった。ところが,これがいけなかった。起案にミスや検討不足が散見されたのだ。優秀なK部長は決してそれを見逃さない。起立させられ,ぐうの音も出ないほどひどく叱られた。もちろん落第である。一年目は散々な評価であった。
二年目になると,右陪席がI裁判官からK裁判官に交代した。高裁では私の方が先輩なので気楽に話すことができた。私も,ようやく高裁の判決に慣れてきた。K部長は仕事が早い上に熱心である。枕元に記録が二,三冊ないと安眠できないと言う。原則一回で結審する。こうして判決を書くべき事件は次々とやってくる。必死に書いていると,処理件数がどんどん増えだし,第三民事部の未済が急激に減っていった。一般に未済が経るということは裁判官の処理能力が高いことを意味するので,好ましいことだと思っていた。これで一年目の悪評は帳消しになるかもしれないという甘い期待を抱いた。
ところが,ある日T事務局長に呼ばれた。事務局長曰く,「大沼君,君は何を考えて仕事をしているんだ」。私は,事件処理のどこに不手際があったのだろうと眼をキョトンとさせた。すると事務局長は,「君は未済を減らし過ぎなんだよ。仙台高裁位のレベルでこんなに減らしたらどうなる。高裁の部が一つ減るかもしれないぞ。」と言う。私は,部長から言われたとおりに仕事をしているだけですと反論すると,「それなら部長に意見しろ」と言う。あの恐ろしい部長に意見などいえるはずはもとよりない。そもそも事務局長ですらK部長に意見を言える立場にはないのだから,私のような陪席裁判官はもっと言える立場にない。
悪戦苦闘しながらも,高裁に慣れてきたので,いよいよ質の良い判決を書くことに注力しようと思い出した二年目の暮れ,突然,古巣の訟務へ異動せよとの内示が出た。三年はいるはずなのに二年で異動,しかも,仙台法務局の訟務部長である。事務局長は,私を指名しての要請だったので断れなかったと言う。
弁護士会が開いてくれた裁判官送別会の席上で,同期のS弁護士からこう言われた。「仙台高裁から出て行くというんで送別会をしたら,行き先は仙台法務局の訟務部か。我々の敵になるんだね。そのことはとやかくいわないけど,法務局の後,そのまま仙台の裁判所に戻って来るのは困るよ。判検交流の弊害の極みだ。どこか別のところで足を洗ってきてくれ。そうしないと弁護士会としては,大沼君のことを問題にしないといけないことになる。」
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